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量子場調整で過去を取り戻し想いを現実に'

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気まぐれコラム




決断力!! 2012.11.11

昨日の講座は、さまざまなことを試みたのですがね、
そのうちの一つに過去のトラウマに対するアプローチを復習として
ご紹介いたしました。

しかし、
「まだまだそれだけでは、正直解消していない」
というご報告も、いただきましたよ。

でもね、
技術はあくまでも、道具です。
道具は、人間という主体によって使われるもの。
主体である意識の方が、道具より勝っているのは、
理の当然。

なので、道具そのもので解決するのだと思わずに、
自分自身の意識で決断すること
すなわち
わたしはそれをトラウマだと、もうみなさない
それを言い訳にして、自分自身を正当化しない
その感情から離脱しよう
という決断が、必要になります。

その決断が、トラウマの解消や心身の変容に対して
何よりもね、強力な力になるのです!

技術に頼るよりも、決断ですよ。

決断!!

ケツ 弾 !!
(あれっ、誤字ですかい)

トラウマを長引かせているのは、
それをトラウマたらしめている、エゴです。

エゴ !!
(いちいちビックリマークうざいな)

そのトラウマがないと、わたしがわたしでいられないような、
そんなふうに思っていらっしゃるところはないですか?

結局、そのような自分が好きなのではないですか?

過去の苦しいお話をしながらも、
うっすらと、どこかで悦に入ったような、
自分自身が特別視されているような
そんな気持ちのなかにいないですか?

そもそも
そのトラウマを、
本当に手放したいと思っているのですか?

トラウマは、事実としてあるのではなく、
トラウマとしてみなす、自分自身の意識、
つまりエゴから、そのように定まってしまっていることが
大きいのだと思います。

技術は、それに対して違う観点で捉えられる、
きっかけを与えています。

異なる視点を、無意識に対して提供しています。

それを、意識的にどう判断していくか、
自分自身の決断が問われます。

ね、ずっとそれに悩んでいたいのか。

ずっと、現状を正当化する理由が欲しいのか。

ずっと、変わりたくないのか。

すべては、選択です。

良いも悪いもなく、選んだものが、現実として残る。

今宵11月11日、決断力をつけてまいりましょう!!








条件付けをやめる 2012.8.21



今日とあるお店に入りましたら、
おそらくモデルさんであろう、
非常にきれいでスタイルの良い方がおり、
おおおっ!と思いつつ、
見たくてもあえて見ないように目をそらしつつ
動揺している自分をごまかしていました。

動揺したのはなぜか?
それは、彼女と対面したことで、
わたしの中の劣等感が反射的に表れたから。

そして、彼女を見ないようにすることによって、
自分の中の劣等感を回避しようとしたから。

量子場調整をやっていて、だいぶ劣等感はとれてきたのですが、
まだまだ反応しちゃうこともたまにありますよ。
とほほ。

20代の頃はもっと酷くて、極端なダイエットに走って生理が止まったり
厚底の靴を履かないと外出できなかったり
写真大嫌い(集合写真なんてもってのほか!)でしたよ。

自分の肉体を、ありのまま認めて受け容れるなんて
とてもできなかった。

そのぶん、自分の容姿をのほほんと受け容れている人や
ちょっと太っていたり、変な格好をしている人に対して
批判的でしたよ。

自分を認められないのは、その都度自分自身を
ジャッジしているからなんですよね。
そのジャッジする意識が外側に向かって、
他人も攻撃するようになる。

劣等感を感じるのは、ジャッジをやめないからです。
ジャッジとは、条件において判断することです。

劣等感の根底には、

可愛いわたしじゃなくちゃ
優秀なわたしじゃなくちゃ
友達に好かれているわたしじゃなくちゃ

ダメ。
自信がない。
サイテー。

なんていうふうに、数々の条件を設けて
判断しているわけですね。

無条件に自分自身を受け容れることができない。

劣等感の背景は、それだけなんです。

条件っていても、誰かに押し付けられたわけではなく、
自分自身の中で勝手につくり出した条件なんですよね。

でも、それが真実だと思っちゃって

(なぜなら動揺したり、恐怖を感じたり、強度の感情的な体験があるので、当人にとってリアルなものになってしまう)

手放さない。
というか、手放せない。

でも、それ外すことできるのですよ!!

それが難しかったら、条件的にあかん自分でも

可愛くないわたし
劣っているわたし
友達がいないわたし

いいじゃないですかー!!

可愛くないわたしでもいいじゃん、って思うと
周りが自分のことを好きになってくれますよ。

人より劣っているわたしだっていいじゃん、って思うと
みんなが可愛いねーって、ケアしてくれるようになりますよ。

友達がいなくたっていいじゃん、って思うと
本当の友人ができますよ。

条件を設けることによって、制限をつくってしまって
その枠の中で世界を見ている自分を解放しよう!!

条件は勝手に自分がつくりあげて、
勝手に自分を縛りつけて
勝手に生きにくくさせている罠。

自作自演オッケーってゆるせば、
みんな自分の中でつくりあげたルールにがんじがらめでいるのが観えてきて
みんな同じじゃん、って
人も自分も受け容れられるようになりますよ!








健康とはなにか 2012.7.2



昨日、量子場師の方の講座アドバンス・スタートを行いました。
お越しいただいたみなさま、ありがとうございました

初めて参加された方もいらっしゃり、

基礎的なことを3時間こってり行いましたよ。

講座の中で、ある方にこんな症状にはどうしたらよいのでしょう?

というご質問を受けました。

その症状はとても複雑な病名がついております。

症状名に対して、あれこれ波動を観察したそうですが、

それだと、本質的な観点が欠けているのではないかと思いました。

量子場調整の基本的な考え方は、ズバリ

症状を観ない

です。

え”えー!症状を観ないって、こんなに辛くてこんな風に診断されたけど

それはどうなの?!

いえいえ、病気を考えるより

ひたすら健康とはなにかを問う

その高い視点が、症状や病気を吹っ切るのです。

病気とは何かと問い、探求していくと

どんどん複雑な思考になり、複雑な状態をつくっていきます。

そして、治療家自身がどんどんその病気に似ていきます。

例えば、花瓶の中の花がしおれてしまったとします。

これは、単なる水不足ですよね。

花瓶の中に十分なお水を入れて、

日の当たる暖かい環境に置けば、

いずれお花は復活します。

「健康とは何か」

とは、このようなアプローチです

花弁に水分を巡らせるにはどうしたらとか

なぜしおれてしまったのか

思考しても、それは木を見て森を見ず、です。
(たとえ合ってるかな)

病気を考えるより、大きな観点でその方の心と身体を観察し、

そして健康という状態に誘う。

ひじょーにシンプルですよね。

3年前、20年に渡り子宮に関する症状で苦しんでいた

患者さんがいらっしゃっいました。

数ヶ月の量子場調整の治療で、劇的に変化いたしました。

そのとき院長に、

「朋美さんは症状のなんたるかを知らなかったから、治せたのだ」

と言われました

そのときは顔から火が出るほど恥ずかしかったのですが、

(その症状に対する知識は当時乏しかったですから)

確かに一理あるな、と。

症状そのものに本質的な原因はなく、

たまたまその症状と、ある状況が出会って、

その状況という条件と、症状が無意識的につながり

条件反射的となって、症状が継続してしまったのです。

ですから、症状そのものにアプローチするより、

症状とつながってしまった条件を成立させる

無意識が観察している「場」を断ち切る方が、

効果的です。

生ゴミを放置しておくと、虫がよってきますよね。

生ゴミと虫がつながっているような状態です。

虫を駆除しようと、いろんな薬品を使ったり戦うより、

生ゴミを廃棄すれば良い話ですよね。

そうすれば、生ゴミとつながって発生した虫が消えます。

症状とつながった「場」を消すというのは、

こんな意味なのです。

症状が発生する前に、それを成立させる「場」がまずあります。

それを消して、ひたすら健康という基準を構築していく。

簡単に言うと、量子場調整はそんな技術なのです。

その方が、よりシンプルですよね。

複雑化が病気をつくり出す

とは院長の言葉です。

よりシンプルな意識と身体に、健康はあります。

そんなご自分を創造したいなら

ぜひいらしてください








声と波動  2012.5.29

量子場調整の技術は、言葉で出来ています。

言葉そのものに量子を動かす力があるのです

言葉は声によって発するものです。

実際の量子場調整は無音で行いますが、

しかし無意識は、発していない音も認識していると思うのです

猫でも人の発する声の響き具合で

恐怖に怯えたり、うっとりと気持ち良くなったり

空気を伝わって振動する音の波動を

直観で認識しています。

声は、言葉の内容そのものと同等の情報を

振動数で伝達しているのかもしれません。

なので、どのような声を発するかという音質の違いで

身体に映し出される波動も異なるように感じられます。

音は、空間を通して伝わります。

わたしたちは音を通じて、空間の大きさや部屋の天井の高さや材質を

知ることができます。

音が響くことに、空間が必要です。

声は口腔や鼻腔や頭蓋骨といった空間に共鳴して

響いていきます。

身体の内側の空間に深く広く広がり響いていく声は、

深く空間を認識しており、
音の媒質となっている空間そのものエネルギーを

伝えてくれるのではないでしょうか。

(空間にもエネルギーがあります)

わたしの身体がまるごと声を響かせる一つの世界で

その響き具合、身体との共鳴具合で波動も変化していくのがわかります。

どのような言葉を発するかという以外に、

どのような音を発するか、という声の質も

波動をかたちづくる大きな要素であるようです。

空間はかたちをもっています。

そのかたちによって、音の伝わり方も異なる。

声とかたちと波動と...

波動の世界は、ますます深みを増していくようです








言葉と意識 2012.1.19



誰しもの共通点として、(もちろんわたしも)

囚われがあるものほど、

(ま、意識がフォーカスしているので当然ですが)

言葉に出るということがあります。

具体的に言うと....

無意識的に自分が恵まれていない、

どこか損している、不当に扱われている

という自覚があるほど、

反対に「幸せです」と言いたがるとか。

自らに対する制限、コントロール欲求、

「ねばならない」という思考が強いほど、

「なんだっていいのよ」「どうでもいいじゃん」

と言いたがるとか。

(そんなことを言うのは、制限があるからなんですね)

つまりこれは、

自分に対する理想、要求が高いと、それが制限になり、

理想や要求に反するものを認められない →

無意識のうちにそれを否定する →

否定していることを認めたくない →

自分ではなく、否定している他者を見つけて非難する →

そのことによって、自分自身の立場を安全にする →

それを確認するために、理想と要求をことさらアピールする...

なんていうからくりなのではないかと。

理想や要求、波動の良いと言われている言葉たちを、

(たとえば「感謝」とか「愛」とか「ありがとう」とか「ごめんなさい」とか)

イメージすることや、発することによって、

かえって無意識にある、
それに相反するものが露になることがあります。

クライアントさんにも何人かいらっしゃいました。

「感謝」や「許してください」という言葉を使うと、

身体がかえって重くなったり、ねじれたり、腰がひいたりしてしまいます。

波動はその方の無意識的な思いが表れるので、一目瞭然です。

身体が重くなったり、ねじれたりするということは

意識と無意識が乖離している、

両者が矛盾した状態にあることを表しています。

でも一般的には、「いい言葉をどんどん言うと、

無意識的に抱えている問題がきれいになったり、波動が良くなります」

なんていうふうに言われているので、

気づかないでどんどん使います。

そうすると、ますます身体は重くなり、

波動がねじれていくという、皮肉な結果に...

いい言葉を使っているのにどうしてかしら?

わたしは罪深い人間だからかしら、

前世からのカルマがあるからかしら

なーんて、ますます複雑に考えてしまいかねません。

いえいえ!

それは無意識的なものに気づいていないだけなのですね。

ある言葉に反応するということは、囚われがあるということです。

その言葉によって、無意識にあるそれがフォーカスされるので、

確かに効果があることはあります。

それをありのままに受け容れればいいだけです

それができないのは、理想と要求が高い、

つまり自分に対するコントロール欲求が強いからではないでしょうか。

その欲求があるから、生きづらくなる、

自由で幸せなつもりなんだけど、ほんとはそうじゃなかったりする、

なんてことになっちゃうわけです。

だから、良い言葉を言えばいいってもんではないのですね。

言葉より意識が問題だっていうこと、

おわかりいただけましたでしょうか?




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