量子場的コラム・意識を育てる


愛と心配は違う



観察術講座でいつもご紹介しているのですが、
心配の波動はとっても重いのです。

それこそ呪い?かというくらい重たい波動が心と体を支配し
呪縛されていきます...

心配する対象ばかりか、心配している自分自身、そしてその場全体にさえも..

集合的な意識の影響は大きいので
状況がどうあろうと、心配するよりも
「大丈夫」だという信頼の思いを!!

人を愛するということは....
一言で語り尽くせるものではありません。

愛と心配をうっかり混同してしまうことは、良くあります。

両者とも、相手を意識するという点では同様です。

ただし、その意識のベクトルが異なるのだと思います。

愛は、相手の力を意識すること(観察すること)という働きであり

心配は、相手より自分の力の方を意識すること

という働きに思えませんか。

心配は、心配しているということで、相手を思っているようですが、

実際は、相手の力を信頼していませんよね。

それは、相手に対する介入、干渉であり

ときとして相手の力を奪うこと、奪いコントロールすること

そのことによって、自分の力を相手にわからせようとしてしまう。

相手に自分をわかってもらおうという働きで

相手をわかるという要素が欠落している....

よって、それは愛ではない

のだと思います。

これは、親子関係などに、よく見られる現象ですね。

母親の子供を想う気持ちが高じるゆえに、

もちろんそれは悪気はなく、

もちろんそれは正直な思いなのだけど

子の自己決定権や子の力を信じられないと

子を無力化させてしまうことになります。

子供の行き場を失ったエネルギーは、子供自身に及んだり

他の人に向かったり、あるいは世代を超えて

自分自身の子に向かったりということは

実は、良くみられる傾向であります。

相手に関心を寄せるという点では共通していますが、

ちょっと道をそれると、怖いことになりますね。

愛への軌道修正は

自分自身の観点を、拡大させることからです。

それには、まず自分の愛する対象にどのような意識で接しているか

気づくことからですよね。




問題は問題ではない



問題はしばしば問題ではありませぬ?

〇〇が××なのですが、どうしたら良いのでしょうか。

どうにかならないでしょうか。

というご相談はよく受けるのですが、

ご本人が問題だと思っていることが

本当の問題でないことが、しばしばあります。

「わたし太っているんですけど、どうしたらいいんでしょう」

丸自分がダメだ、無価値だという思いを「太っている」という現象に

すり替えているだけ

丸思い通りにならない現実に対して、わかりやすい理由がほしい

「子供が言うことを聞きません、どうしたらいいんでしょう」

丸自分自身の不安や心配から、子供の一挙一動が気になってつい支配的になってしまう

丸現実をコントロールできないという歯痒さゆえ、子供を支配化におこうとしてしまう

「親がわたしをコントロールしてきます、どうしたらいいんでしょう」

丸自分自身の恐怖心や被害者意識にばかり囚われてしまい、身近な人や自分に対しても心を開いて向かい合っていない

丸何に対しても受動的すぎる

などなどなど...

ご本人にとって、なじみがありすぎて、

それ自体が世界観のあたりまえな枠組みになっているので、

なかなか気づけないのですね。

それに対する意識の偏り、知覚の歪み、勘違いに気づくことができると

問題が問題でなくなっていきます。

そして、以前のように自分や相手を観察しなくなるので、

実際に、太り気味な人は引き締まったり、旦那さんが優しくなったり

といった現実的な変化も生じてきます。

あなたの悩み!ほんとうに問題ですか?

問題を問題視しているだけではなかったりしませんかっ?




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